この記事は禅寺僧侶の立場から、供養について解説します。
供養とは誰のために行うものなのか
多くの方は、供養とは亡くなった方のために行うものだと考えています。
もちろんその通りです。しかし、もし供養が亡くなった方のためだけのものであれば、これほど長い年月にわたって続いてきた理由を説明することは難しいでしょう。
供養には、亡くなった方を偲ぶ意味と同時に、生きている私たち自身に向けられた意味もあるのではないでしょうか。
つまり、現世利益があるということです。現世利益がなければこれほど長きに渡って供養は続いて来なかったでしょう。人間は基本的に何らかの利益がないことは行いません。
人はなぜ供養を続けてきたのか
人類は何千年にもわたって供養を続けてきました。
時代が変わり、生活が変わっても、供養という営みはなくなりませんでした。
それは供養が、
- 感謝を思い出す
- 悲しみを受け止める
- 家族の絆を確かめる
- 自分自身の生き方を見つめ直す
といった役割を果たしてきたからだと思います。
そして何らかの利益が供養という行為によって、自分の人生にもたらされるということです。
供養とは生きている人のための営みである
供養とは、生きている人のための営みでもあります。
亡き人を想うことで、
- 感謝が生まれる
- 高い視点から物事を整理することができる
- 人生を見つめ直せる 等
の様々なプラスの側面があります。
『人間は考える葦である』、という名言を残したデカルトは、著名人が集うサロンで神は本当にいるのか、という議論になった際、神がいようといまいと信仰を持った方が良い、と述べました。そのことにより規律・節制、視点の高さ等が生まれ、人生に良い影響が生まれるというロジックです。
供養によって最も変化するのは、亡くなった方ではなく、生きている私たち自身なのかもしれません。
供養によって得られるもの
供養によって得られるものは人によって異なります。
ある人は心の安らぎを得ます。
ある人は故人との対話を感じます。
ある人は人生を前向きに生きる力を得ます。
供養は目に見える利益を目的とするものではありませんが、結果として私たちの心や人生に良い影響を与えることがあります。
と言われることも多いですが、明確に目に見える利益を目標に掲げても何の問題もありません。
供養は生きている人のための営みである、というところでも書きましたが、信仰を持つことにより、神仏がいようといまいと人生は良い方向に行くかと思います。さらに都合の良いことに神仏というエネルギー体は存在するようです。二重の意味で信仰を持つ(供養含む)ことは自分自身の人生を繁栄・発展させるためには必要なものではないかと考えられます。
心と形式は本来一体である
「大切なのは心であって形式ではない」という言葉があります。
確かに心は大切です。
しかし、心と形式を切り離して考えるべきではないと思います。
合掌すること。
線香をあげること。
お経を唱えること。
法要を営むこと。
こうした形があるからこそ、人は故人を思い出し、感謝し、自らの心を整えることができます。
形式は単なる作法ではなく、心を育てる器でもあるのです。
禅寺僧侶として思うこと
私は長年供養に関わる中で、多くの方を見てきました。
供養を通じて心が軽くなる方もおられます。
供養を通じて人生が良くなる方もおられます(基本的にそうなります)。
供養とは亡き人との関係を、より良い形でつなげ、先祖と子孫の力を上げ続けるための営みでもあるかとも思います。
そして、その営みが生きている私たちの人生が繁栄・発展するように導いてくれます。
まとめ
供養は亡くなった方のためだけに行うものではありません。
生きている私たちが感謝し、心を整え、人生を見つめ直し、力を上げ続けるための大切な営みでもあります。
そして、そのために合掌や読経、法要といった形が受け継がれてきました。
供養とは、亡き人を偲ぶと同時に、自らを整え、繁栄・発展に向かうための時間でもあるのです。
【御参考】
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